税金払ったくらいで主権者面すんな!?
※※ 上記の訂正記事は、小論が最初に掲載された2006年当時の某紙面上において、前回末尾の私の文章が、編集者により勝手に書き換えられてしまったことに対する抗議の意味も込めて翌月号に載せたものです。今回のブログでは、当然のことながら本来の正しい文章に再訂正済みなので、こんなものまで載せる必要はなかったのですが、当時の編集者のトンデモナイ勘違いっぷりから想像するに、今回のブログ読者の中にもそういう真反対の意味に誤読するような輩がいないとも限らないので、注意喚起の意味も込めて、あえて掲載することといたしました。
(本文はここから)明治維新の英雄の一人である板垣退助は、自らの戊辰戦争従軍体験をもとに、大体次のような意味のことを語っている。
「会津の戦争でな、わしら官軍が町の中に攻め入っとるというのに、そのわしらと戦おうとするのはみな侍ばかり。町人どもときたら『いくさなんぞ、わしらにゃ関係ない』とばかりに平気でわしらの陣中に物売りに来たりするんじゃ。それを見て、わしはつくづく『これでは日本は駄目だ。日本を異国の手から守るには、彼ら庶民に、国防に対する義務感を持たせなければならない。そのためにはまず、彼ら一人一人に尊厳を与え、国政に対するそれなりの関心と発言権とを持つようにさせねばなるまいなあ』と痛感したんじゃ。わしが後に自由民権運動を始めたのも、実を言うとその時の経験が元になっとるんじゃて」
つまり、「義務は権利に優先する」という昨今の保守オヤジがいかにも喜びそうな言説とは裏腹に、近代初期の日本においては「国民に、国防に対する義務感を持たせなければならない。そのために必要な手段として、まず国民に政治に対する権利を与え、国家への帰属意識と、いくばくかの責任感を持たせる」という全く逆の発想により、国民の権利と義務に対する意識を育てていったというのである。
同じような論理展開は、福沢諭吉の「一身独立シテ一国独立ス(国民一人一人が独立した市民となってこそ、独立を保てるような強い国家になれる)」という言葉にも見られるし、最近では宮台真司の言う「個人の尊厳の保障装置としての公共財(つまり国家)へのただ乗りは許さんぞ!」という言説にも、こうした近代社会における権利と義務の関係が、極めて適切に表現されているといえよう。
すなわちボストン・ティ-パ-ティ-のスロ-ガンとは異なり、国民が参政権を得るために果たさなければならない義務とは、実は納税の義務ではなく、兵役の義務なのだ。
(続く)
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