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「主権」から逃げるな!

 と、いうわけでようやく本論に戻るわけだが、こうした近代的思考の特性から憲法について考えをめぐらせてみたとき、「あらゆる全ての物事に対し、何事をも成し得る無制限の支配力を持つ」主権という考え方もまた(元ネタは一神教的神観にあるとはいえ)「目的合理的に政治権力の極限を追求する」近代的政治思考ならではの産物であることがよく分かるだろう。

 中川八洋その他の日本の自称・保守主義者どもは主権思想に対し、あたかもフランス革命時の国民議会がでっち上げたインチキ思想であるかのようなプロパガンダを最近はよく行っているが、そもそもフランスその他のヨーロッパ諸国には、それ以前にまず「王権神授説」なる「君主主権」思想があり、「国民主権」は単にそれに対するアンチとして出てきたものに過ぎないことを忘れてはならない。そしてヨーロッパの近代とは、まさにその「王権神授説」に基盤を置いた「絶対王政」時代からスタートしているのだ。

 なるほど。確かに長谷川三千子先生のおっしゃる通り、主権思想とは、時には何十万人もの大虐殺をすら引き起こしかねない、極めて危険で厄介なシロモノであることは事実だろう。

 しかし「だから主権思想など、日本には有害無益だから排除すべきだ」などと言っていたのでは、幕末期の尊王攘夷派となんら変わらなくなってしまう。「交通事故になるといけないから、自動車には乗らない」などというわけにはいかないのだ。

 「グローバライゼーション」などと呼ばれるこの大競争の時代に、真に日本を生き残らせたいのならなおさら、典型的に近代的な政冶思想である(ゆえに最強である)「主権思想」から、我々は決して逃げてはならない。

 もちろん、こうした(主権思想も含めた)近代化路線が、明治以降、日本の歴史・伝統・文化に多大な被害を与え続けてきている事実は私も否定しない。

 なにも憲法だけの問題ではない。古くは夏目漱石の日記から、三島由紀夫のいう「ニュートラルな、中間色の経済大国」そして最近では宮台真司のいう「入れ替え可能性」の問題提起に至るまで、要は「本来、自分たちの歴史・伝統・文化を守るための近代化だったはずなのに、それを徹底的に推し進めることによって、肝心の守るべき歴史・伝統・文化が壊されてしまう」というパラドックスは、明治以来の日本が一貫して持ち続けてきた、深刻な文化的矛盾そのものであり、本来はこれこそが、我々愛国者陣営が取り組むべき、最重要課題であるべきなのだろう。

 だからこそ私は、一愛国者として、小林節教授の唱えられた「民族主権説」というのが、この危険な「主権思想」を飼い馴らす極めて有効なアイディアではないかと考え、非常な興味を示しているのである(ただし、まだ二つほど大きな疑問が残っているので、全面的に宗旨替えするわけにはいかない)。

 次回は、その小林教授が、最近突然「反改憲派」に転向したという噂について、私なりの考えを述べてみたい。

(続く)
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