『密教的人権観』と『顕教的人権観』
「『人権は神から授かったものだから尊い』だと!? そんな御伽噺を、まさかお前本気で信じてるわけじゃあるまいなァ!?」
前回に私が述べた人権観に対し、どうも中川八洋の愛読者であるらしいある人物からそういう突っ込みが入った(註:2008年当時)ので一言弁明しておきたい。
この世に生きる人間の目の前に、本当に神様が出現して「汝らに人権を授けよう」とのたまわれた、などという歴史事実が存在しないことは、言うまでもなく当たり前のことである。
ロックの「天賦人権論」にせよ、ルソーの「社会契約説」にせよ、それがただの虚構でありフィクションでしかないことは、現在(註:2008年当時)もっとも声の大きい護憲派憲法学者である伊藤真ですらあっさり認めるくらい(『憲法の力』集英社新書七五頁~七六頁)インテリの間では当然の常識とされていることである。久野収の造語をパクるならば、それはいわば『密教的人権観』とでも言えよう。
「さて、虚構だから憲法意思はくだらないということになるのでしょうか。現実の社会というものは虚構を織り込んではじめて回るシステムです。(中略)憲法意思ないし一般意思という虚数を否定すると、実数空間の構造まで失われてしまいます」
「憲法意思には実体がない。しかし、一般意思が憲法を支えているということにしないと、近代の社会システムは機能しません。人権概念のベースはそういうものです。それをわきまえずに、フランス革命におけるロペスピエールによるギロチン政治の顛末はルソーの一般意思概念のせいだというのは、事実としては正しくても(!)、思想として間違っています」(『日常・共同体・アイロニー』宮台真司・仲正昌樹共著、双風舎)
つまり「嘘を嘘と知りつつ、あえて肯定する」のが人権思想に対するインテリの取るべき態度であり、それを「虚構だから」と言うだけで否定した気になっている中川八洋のごとき輩には、「万世一系なんて嘘っぱちじゃないか」と言っただけでいわゆる「天皇制」を否定した気になっている『週刊金曜日』のバカ執筆陣どもを嘲笑する資格など無いといっても過言ではあるまい。
ま、それはともかく。
前回に私が述べた人権観は、そのようなインテリの間だけで通用するようなヒネくれた『密教的人権観』などでは勿論ない。「全国の小・中・高校の全ての社会科教科書」や「政府・自治体が発行する『人権問題Q&A』といった類の小冊子」で展開される人権観、すなわち一般大衆向けの『顕経的人権観』とでも言うべきもののことなのである。
人権思想の根本がフィクションであることは疑いようのない事実なのだから、ここにおいても歴史的事実性はあまり問題とはならない。『顕経的人権観』において重要なのは、あくまでもそれを大衆に受け入れさせられるだけの「もっともらしさ」、すなわち説得力がどれだけあるのか、という一点に尽きるのである。
(続き)
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